大判例

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千葉地方裁判所 平成3年(行ウ)19号 判決

原告

片山育子

右訴訟代理人弁護士

小川寛

石塚英一

鈴木牧子

被告

地方公務員災害補償基金

千葉県支部長

沼田武

右訴訟代理人弁護士

橋本勇

岡田暢雄

滝田裕

主文

被告が原告に対してした昭和六三年八月一二日付け公務外認定処分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文と同旨

第二  事案の概要

一  争いのない事実等

1  原告は、片山長四朗(昭和二七年七月一四日生。以下「片山」という。)の妻である。

2  片山の死亡

(一) 片山は、昭和五六年四月一日千葉県公立学校教員として採用され、昭和六〇年四月一日から千葉県立匝瑳高等学校(以下「匝瑳高校」という。)に教諭として勤務していた。

(二) 片山は、昭和六二年九月二三日(以下、同年については年の記載を省略することがある。)、家族で片山の実家に墓参りに行く予定にしていたが、その前に午前一〇時一五分ころから午後〇時二〇分まで匝瑳高校グラウンドで陸上部(なお、証拠中には「陸上競技部」という呼び方をしているものもあるが、以下「陸上部」という。)の部員の練習指導をした。

片山は、午後〇時四〇分過ぎころ下校し、同校近くの親類の大木宅に行き、同所で待ち合わせていた原告と娘を連れて車で千葉県旭市にある実家に向かった。大木宅に迎えに来た時の片山は、顔が赤く疲れている様子であり、好物のおはぎに手をつけず、腹の具合が悪いと言ってトイレを借りた。大木宅を出た後、車で五分くらいの所の中華料理店で昼食をとったが、片山は、額に冷や汗をかいて胸の辺りが変なんだと言いつつも、食事を終え、原告が料金の支払している間駐車場の車のそばにしゃがんでいた。片山が車を運転して出発し、一〇分くらい走行したころ、片山は頭を左右に振り始め、実家まであと五分くらいという辺りで停車し、原告と運転を交替するため後部座席に移ったが、すぐに車外に出て後部左ドア付近に移動し、その場でしゃがみ込み、胸をたたいていた。原告が「心臓が変なの?」と尋ねると、片山は「心臓かなあ」と答え、原告が「救急車を呼ぶ?」と尋ねると、片山は、声を発せずただ大きくうなづき、拳で車を強くたたいた。そして、原告が近くのパン屋に駆け込み、救急車の手配を求め、戻ってみると、片山は仰向けに倒れていた。原告が夢中で人工呼吸を試みると、見ていた男の人が「もっと強く押すんだよ」と言って代わってくれた。

(甲一一、二四、五二、原告)

(三) 片山は救急車で同日午後二時五〇分ころ旭市内の旭中央病院に搬送されたが、既に昏睡状態で呼吸が停止し、頸動脈の拍動を触知せず、心電図で心室細動が認められたものの血圧は測定不能の状態であり、同日午後四時一六分死亡が確認された。死因は心筋梗塞と診断され、解剖の結果、心臓の左心室中隔後壁に2.5×1.0×3.0センチメートル大の比較的新鮮な黄色の梗塞(以下「本件病変」という。)の病理所見が得られた。

(甲一三の1〜3、三七、三八、証人斎木茂樹)

3  原告は、片山の死亡を公務上のものとして、被告に対し、地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という。)に基づき公務災害認定の請求をしたところ、被告は昭和六三年八月一二日付けで公務外認定の処分(以下「本件処分」という。)をした。

そこで、原告は地方公務員災害補償基金千葉県支部審査会に審査請求をしたが、同審査会は平成元年九月一四日付けで審査請求を棄却した。

さらに、原告は地方公務員災害補償基金審査会に再審査請求をしたが、同審査会は平成三年一月九日付けで再審査請求を棄却した。同年三月二八日原告にその裁決書が送達された。

二  原告の主張

1  公務起因性の考え方

地公災法にいう公務上死亡とは、公務の遂行が公務員にとって精神的肉体的に過重負荷になり、基礎疾病や素因をその自然的経過を超えて急激に憎悪させ死亡時期を早めるなど、基礎疾病や素因と共働原因となって死亡の結果を発生させたと認められる場合をいう。

2  片山の基礎疾病について

片山には、冠状動脈の硬化があったが、その程度は剖検結果によれば中等度ということであり、蛇行もなく、粥状硬化が認められる程度で、石灰沈着にも至っていない。冠状動脈の入口も尋常であって狭窄はない。それゆえ、右の冠状動脈硬化のみでは、その自然的増悪により死に至ることはあり得ない。

また、片山には陳旧性心筋梗塞もみられたが、それは剖検結果によれば左心室の側壁の1.2×1.0×2.5センチメートル大のものであり、本件病変は左心室の中隔後壁の2.5×1.0×3.0センチメートル大のものであるから、両者は部位・程度ともに異なるものであり、右の陳旧性心筋梗塞が今回の死因になったわけではない。

3  片山の死亡は公務上のものである。

(一) 片山の校務分掌

匝瑳高校において、教師の担当する校務は、部・校内委員会・学年・教科主任・生徒会の五つに分かれており、部の校務と生徒会の校務のうち文化部・運動部・同好会のいずれか一つ以上の顧問には教師全員が必ず就任することとなっていたが、その他のものは必ずしも担当しなければならないわけではなかった。

しかし、片山は、死亡した昭和六二年度には、教務部と二年D組の正担任、社会科の教科主任を分掌するほかに、陸上競技部の顧問と文化委員会のチーフ顧問を引き受けており、他の教師と比較しても、過重な分担をさせられていた。

(二) 職務内容

(1) 片山は、週一六時間の授業とロングホームルーム、二時間の必修クラブを受け持っていた。

(2) 片山は、昭和六一年度には文化委員会の顧問を引き受け、昭和六二年度には更にチーフ顧問を引き受けた。

文化委員会の顧問は、匝瑳高校において例年九月ころ実施される文化祭と三月に実施される予餞会の指導・実施を担当するものであるが、同顧問のみですべての仕事を分担しなければならず、六月ころから九月ころまでは文化委員会の開催や生徒の指導等を行うためにかなりの時間を割くこととなり、特に九月には文化祭の準備に忙殺され、中でもチーフ顧問は激務であった。

(3) 片山は、匝瑳高校に赴任した当初の二年間はサッカー部の顧問であったが、死亡した昭和六二年度には陸上競技部の顧問に就任した。

片山は、サッカー部顧問の間は、サッカーの経験がなくその技能もなかったので、生徒と共に練習することはなかった。しかし、陸上部顧問に就いた後は、片山は、同校陸上部のOBであった上、低迷する現陸上部の成績を上げてくれるという強い期待がかけられたため、責任感の強い片山は熱心に指導に励むことになった。

陸上部顧問の片山の担当は長距離走部門であり、練習は、月曜を除く平日は午後四時ころから七時ころまで、土曜日は午後一時ころから五時ころまで、日曜日は午前九時ころから一二時ころまで行われた。片山は、練習の際には生徒と共にグラウンドに出て走り、指導をした。また、陸上競技大会への引率も顧問としての業務であった。

(三) 昭和六二年度一学期の勤務状況

片山は、昭和六二年度一学期は通常の授業等をこなす傍ら文化祭指導のための研究に着手し、六月ころから文化委員の生徒や一般参加団体及び有志参加団体に対する出し物や企画の指導に入り、今年の文化祭をどのようなものにしていくかといった議論を文化委員の間で練ったり、生徒の自主性に任せたものにしつつ、生徒の立てた企画を調整していくといった指導をしていくことが必要となった。このような事情から、文化委員会は六月から七月にかけてのわずか一か月半の間に一一回も開催された。

また、片山は、陸上部の練習指導も開始したが、高校卒業以後スポーツをしておらず、教師になってからも本格的な運動をしたことはなかったので、体力が落ちていたにもかかわらず、日々の練習において生徒と共に走った。その上、陸上競技について理論面の研究も始めなければならなかった。こうして、片山は、一学期の日曜・祝日のうちの半分に当たる約一〇日間を陸上部の練習指導や競技大会引率のために勤務した。右のような職務は、精神的・肉体的に過重な勤務となり、徐々に片山の疲労を蓄積させていった。

さらに、片山は、昭和六二年度に初めて社会科主任となった。このため、文化委員会チーフ顧問としての多忙な時期であった六月八日から同日二〇日までの間に教育実習生二名の指導を総括しなければならず、そのうちの一名の指導を直接担当しなければならなかった。

(四) 夏期休暇期間中の勤務状況

片山は、夏期休暇中(七月二一日から八月三一日まで)は、生徒・保護者との三者面談、課外授業、陸上部の指導や合宿、陸上競技大会への同行などの勤務に従事した。その結果、片山が登校しなかったのは八月五日から九日まで、一七日、二三日、三一日の八日間にすぎなかった。さらに、七月三〇日から八月四日まで歴史部会主催の韓国旅行に参加し、同月二七、二八日には社会科親睦旅行に参加した。これらはいずれも公務としての旅行であった。

そのため、夏期休暇中も片山の疲労は蓄積されていった。

(五) 昭和六二年九月の勤務状況

(1) 片山は、通常の授業やホームルームなどをこなす傍ら、文化委員会チーフ顧問として、九月七日まで、文化祭における教室割りや各職員の当日の仕事の分担、参加団体のPR文や道具移動票、運動部の名簿や補助役員表、教務・総務への連絡のための資料等、最終手配を明らかにして全員に動いてもらうための資料を生徒を指導しながら作成した。また、右作業と平行して、同年度の文化祭について職員会議で質問された場合の対策も練られなければならなかった。

さらに、片山は、文化祭開催まで、①文化祭パンフレットの印刷業者との交渉、模擬店関係生徒らの検便実施のための保健所との連絡・交渉、実施資料の作成・提出、清掃業者との連絡・調整等の外部との調整の仕事、②文化祭準備のために居残る生徒への帰宅指導・残留届提出の徹底、参加団体へのポスターの注意、領収書の注意指導等の規律保持のための雑務、③文化祭直前に他の職員の夜食の注文をすること、④パンフレットの製本作業、⑤当日の指導や準備の確認作業として、体育館の点検、暗幕の点検、定時制との連絡、ビニール袋、傘袋の点検、文化祭の門・案内板・パンフレットの点検、道具・ステージの点検、後夜祭参加バンドへの終了時間の指導などをチーフ顧問としてほとんど一人で取り仕切った。片山は、右の仕事に忙殺されたため、九月一三日の文化祭まで帰宅時間が遅くなり、通常の授業の教材研究は昼休み等に行う状態であった。

その上、同年度の文化祭が生徒の自主性を重んじたためお祭り的な要素の強いものとなってしまい、年長の教師からの批判が強く、他の教師も非協力的であった。さらに、後夜祭の打ち上げについて、片山の生徒への伝達の仕方がまずかったとして、生徒指導部長から各担任に再伝達がされるという事件があり、精神的にかなりのストレスが片山に加わっていた。

(2) 片山は、文化祭終了後も祝日の九月一五日に翌日の社会部会役員会に出席するための資料づくりをするために登校したりし、疲労はかなりのものとなっていた。片山は、それでも一九日から陸上部の練習指導を再開したが、体調がすぐれないため、翌日の練習指導は休まざるを得なかった。

九月二一日から校内競技大会が始まり、この日はソフトボール大会であったが、片山はそれまで見たことがないようなもたもたした走り方をしていた。翌二二日のサッカー戦応援の際、片山は疲れ切って寝そべっていた。

(六) 死亡当日の片山の勤務状況

九月二三日は祝日であったが、同月二五日に迫っていた陸上部の新人戦県大会の最終調整練習日であったため、片山は、午前一〇時一五分ころから匝瑳高校グラウンドにおいて指導を始め、生徒と共に走った。

この日の片山の練習指導の内容は、ウオーミングアップを兼ねてトラック二周八〇〇メートル、ウインドスプリント走一五〇メートル二本、ペース走二〇周八〇〇〇メートル、トラック二周八〇〇メートル、二〇〇メートル走三本、四〇〇メートルのジョギングというものであり、計一万〇九〇〇メートルにも及ぶかなり激しいものであった。

このように、片山の死亡は、過重な校務分掌により疲労の蓄積が著しかったことに加え、死亡当日の過酷な陸上競技の練習指導が原因となって心筋梗塞を引き起こしたものであるから、公務上のものといえる。

三  被告の主張

1  公務起因性の考え方

地公災法にいう公務上死亡というためには、公務と疾病等との間に相当因果関係が存在することを要する。この相当因果関係の具体的内容については、少なくとも公務が疾病等を引き起こすその他の要因との関係で相対的に有力な原因であると評価し得ることが必要である。

そして、心筋梗塞のような虚血性心疾患は、動脈硬化等による血管病変又は心筋変性等の基礎的病態が、加齢や日常生活等における諸種の要因によって憎悪し、血管の閉塞、心筋の壊死等が生ずる結果発症するのが通常であり、特定の業務が特定の虚血性心疾患を発症させるという関係にはない。それゆえ、このような場合の相当因果関係として、次の①及び②の両者の要件を満たす虚血性心疾患等にのみ公務起因性が認められるといえる。

① 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること

イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事

ロ 日常業務に比較して特に過重な業務に就労したこと

② 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が医学上妥当なものであること

ここで、日常業務に比較して特に過重な業務とは、通常の所定の業務内容等に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務をいい、その判断については次による。

a 発症に最も密接な関連を有する業務は発症直前から前日までの間の業務であるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かをまず第一に判断すること

b 発症直前から前日までの間の業務が特に過重であると認められない場合であっても、発症前一週間以内に過重な業務が継続している場合には、急激で著しい憎悪に関連があると考えられるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かを判断すること

c 発症前一週間より前の業務については、急激で著しい憎悪に関連したとは判断しがたく、発症前一週間以内における業務の過重性の評価に当たってその付加的要因として考慮するにとどめること

d 過重性の評価に当たっては、業務量のみならず、業務の内容、作業環境等を総合して判断すること

2  片山の素因

片山には、死亡当時、粥状動脈硬化が見られ、更に内膜下の線維性肥厚や血栓形成によって冠状動脈の至る所に狭窄による病変が見られた。そして、これらは長い期間の経過の中で徐々に形成されたものであった。このように、片山は、何度も心筋梗塞を起こしてきたことが明らかであるから、血管及び心臓の病変が著しく、死に至る程度の高度の素因を有していたといえる。

3  片山の死亡は業務上のものではない。

(一) 死亡当日、片山は陸上競技の指導をしているが、これによって脱水症状を起こしたわけでもなく、本件病変は直接には血栓による血管の閉塞によって引き起こされたものであり、運動による循環血液量の増加により心臓付近の血流が減少したことによるものではないから、右陸上競技の指導は本件病変の原因ではない。

(二) 片山は、高校時代陸上部に所属し、校内マラソン大会で二年連続優勝しており、また、匝瑳高校の陸上部の顧問に就任するのに備えてジョギングをするなど鍛練していたから、陸上部の指導走行は体力に比し著しく過重であったとはいえない。

(三) 片山の授業時数は他の教諭とほぼ同じである。また、校務分掌についても、校務分掌調整委員会が設けられており、校務分掌を定めるに当たって、所属職員の能力、適性等を考慮するとともに所属職員の希望・意見等も十分聴取した上で、当該分掌事務を処理するにふさわしい人物が選任されていたのであるから、片山だけが一人過重な校務分掌を割り振られていたわけではない。

(四) 文化委員会の仕事は、片山以外にも四人の教諭が分掌していたのであるから、原告の主張するように何から何まで片山が一人でやっていたわけではない。また、片山は、文化委員会の仕事は前年度も経験しており、チーフ顧問の仕事をするのにも全くその仕事を分かっていない状態ではなかった。

文化祭開催に際して外部からさまざまな批判が寄せられ、片山がプレッシャーを感じていたとしても、その程度は通常の教諭が抱えているストレスの域にとどまるものであった。

(五) 夏期休暇期間中の社会科親睦旅行は、出張命令がなく、職務専念義務が免除されているだけのものであり、公務の遂行とはいえない。また、韓国旅行についても、服務上、研修とされ、出勤簿にもそう記載されてはいるが、これは、教育公務員特例法二〇条二項により本属長(校長)の承認を得ている公務外研修として、職務専念義務を免除されたものであるから、これも公務に従事したとはいえない。したがって、夏期休暇期間中に原告が出勤しなかったのは、右各旅行の期間を含む一六日間であり、その登校率は六二パーセントにすぎない。

第三  判断

一  公務上死亡の考え方について

地公災法にいう公務上死亡とは、職員が公務の遂行に基づく負傷又は疾病等に起因して死亡した場合をいい、右死亡と公務の遂行との間に相当因果関係のあることが必要である。そして、右の相当因果関係があるとは、当該公務の遂行が当該職員の持っている基礎疾病や素質的因子等他の要因との関係で死亡原因として相対的に有力な原因となっていることが認められ、その死亡は当該公務に内在する危険が現実化したことによるものとみることができる関係にあることを意味するものと解するのが相当である。

そこで、以下、片山の公務の遂行が本件病変を伴う死亡の相対的に有力な原因であったか否かを判断する。

二  本件病変と片山の基礎疾病について

証拠(甲三、一三の1〜3、三三、三四、三八、乙一、証人青木純一郎、同斎木茂樹)によれば、以下の事実を認めることができる。

1  心筋梗塞について

(一) 心筋梗塞とは、一般に、冠状動脈の閉塞によってその支配領域の心臓の筋肉が酸素不足となり、心臓の筋肉壊死を引き起こすことをいう。一般的には左心室前壁・心室中核に最も起こりやすいとされている。

(二) 心筋梗塞の原因は冠状動脈の動脈硬化(内膜下の粥状変性)によるものが最も多く、動脈硬化が次第に進むと、血管の内腔は狭くなり、遂には閉塞してしまう。その他の原因としては、血栓の形成、塞栓などによるものがみられる。

心筋梗塞は男性に多く、そのリスクファクターとしては、一般的には高血圧、高齢、肥満、喫煙、飲酒、高脂血症等が考えられる。

(三) 心筋梗塞が起きると、心臓の拍出不全・収縮不全が起き、心筋に酸素が不足して細胞壊死が起こり、死に至る。また、心破裂を引き起こすこともある。

死に至らない場合は、経過とともに白血球湿潤が出現して、壊死心筋は消失して後に線維症を遺す。その完成には通常一か月が必要である。

一般に、心拍数が増えているときは、循環を速くするために通りやすい血管を血液が大量に通り、通りにくい所に血液が行かなくなるために、心筋梗塞の発作が発生しやすい。しかし、心筋梗塞は、運動中ではなく運動終了後数時間内に発生することもあり、発生のメカニズムにはまだ不明な部分がある。

(四) 既に心筋梗塞が明らかであれば、医学的見地からは、基本的に運動等は指導せず、処方に従わせることになる。

2  被告の照会に対する旭中央病院の大屋滋医師の回答によれば、片山の心筋梗塞の発生機序は、冠動脈の硬化・狭窄が基礎にあり、何らかの誘因により血管のれん縮、血栓形成が起こり、心筋の虚血・壊死を発症したということである。そして、死亡当日の長距離走行により、心筋酸素需要が増加し、冠動脈れん縮、血栓の形成が誘発され、心筋梗塞を発症した可能性は十分にあるという意見が述べられている。

3  斎木茂樹医師の剖検所見及びその後行った心筋組織の染色による診断所見は次のとおりである。

片山の死亡時の心臓の重量は四二〇グラムであり、同人の身長・体重からみれば正常範囲内であるが、右心房と右心耳に著名な拡張があり、三尖弁に中等度の拡張がある。これは左心室側からの拍出量が減少したための病変であると見られ、拍出不全があったことを示すものである。

左心室中隔後壁に2.5×1.0×3.0センチメートル大の比較的新鮮な黄色の梗塞(本件病変)があり、この部分に比較的新鮮な血栓の形成が認められる。また、一か月よりもっと前のものであるとみられる古い心筋梗塞の病変が左回旋枝の末梢、左前下行枝の末梢、右回旋枝等の部位に存在し、それぞれに血栓の形成が認められる。さらに、この古い病変の周辺部に新しい心筋梗塞の病変が加わっており、右心室にも新しい病変と一週間以上経過していると見られるやや古い病変が混在している。しかし、これらの古い病変は死に至るほどの広がりを持っていない。

片山の冠状動脈には粥状硬化とともに比較的新鮮な血栓の形成がある。すなわち、左冠状動脈の起始部には動脈硬化がほとんどなく、左回旋枝及び右回旋枝の狭窄(内膜下の肥厚)はそれぞれ二五パーセント程度であるが、左前下行枝のやや末梢部分には血栓の形成が見られ、約七五パーセントの狭窄が起こっている。このように、片山については、動脈硬化性の病変が同年代の者に比べて強いということはなく、血栓の形成が特徴的である。一般に血栓の形成要因として、血管内皮細胞の傷害、血液成分の異常(多くは脱水症状による粘張化)、血流異常によるもの等が考えられるが、剖検時片山には脱水症状特有の症状は見られなかった。ただし、片山について、血液の濃度の拡大や粘張度についての検査データはなく、血栓の形成要因として右のいずれの可能性も考えることができ、どれと特定することはできない。

三  片山の健康状態

証拠(甲一三の1〜3、一四の1〜4、一五の1、2、五二、証人長塚聡、原告)によれば、片山の健康状態は以下のようなものであったことが認められる。

1  片山は、身長一七一センチメートルであり、体重は昭和六一年五月の健康診断時(以下「六一年時」という。)には六四キログラム、昭和六二年五月の健康診断時(以下「六二年時」という。)には五八キログラムであった。血圧は、六一年時には一三六/八〇、六二年時には一三九/七四であった。六一年時、六二年時とも、胸部レントゲン撮影の結果異常はなく、尿検査の結果、蛋白、糖、潜血いずれもマイナスであった。

2  片山の嗜好は煙草で、一日二箱ほど吸っていたころもあったが、徐々に減らしており、六一年時の健康調査票には一日二〇本、六二年時には一日一五本と記載されている。片山は普段晩酌はしなかった。

3  片山は、昭和六二年七月二一日三者面談のために登校したが、登校直後ころから具合が悪くなり、社会科研究室のソファーに横になり、昼食も取らずに午後まで横になっていた。

片山は、夏期休暇期間の終わりころから、肺の辺りがおかしいと拳骨で胸をたたいたりするようになり、原告に「おかしいな、あの日(七月二一日を指す。)以来変なんだ」と言っていた。煙草も夏ころから吸わなくなった。

原告は、片山のそのような様子を見て、病院に行くことを勧めたが、片山は、「急いで医者に行くほどではないんだよ、煙草をやめると少し違うみたいだし」とか、「今は忙しくて行けない」「でもこういうのは何科に行けばいいのかなあ」などと言っていた。

片山は、七月二一日以来、時々胸の辺りの不調を訴えていた。

四  片山の勤務状況

1  匝瑳高校における片山の職務(証拠を掲げた事実以外は、当事者間に争いがない。)

(一) 匝瑳高校において、教師の担当する校務は、部・校内委員会・学年・教科主任・生徒会の五つに分かれていた。

昭和六二年当時は匝瑳高校の教員数は約六〇名であったが、このうち部及び生徒会については教師全員が必ず一つずつは担当することになっていた。これに対し、校内委員会及び学年クラス担任は、必ずしも教師全員が分掌するわけではなく、教科主任も各教科に一名ずつであった。ただし、校内委員会については、定員との関係で教師全員が最低一つを希望するようになっていた(証人市原勝)。

片山は、昭和六二年度においては、教務部を分掌し、二年D組の正担任で社会科の教科主任であり、陸上部の顧問を担当し、文化委員会のチーフ顧問に就任した。

(二) 匝瑳高校の教諭の勤務時間は、午前八時から平日は午後四時四五分までで、土曜日は一二時までであった。

校務分掌に基づき、片山は、社会科の授業と正担任としての校務により、週一六時間の授業とロングホームルーム、二時間の必修クラブを受け持っていた。

社会科主任の業務は、予算の折衝や研究発表が主なものであり、それに教育実習生の指導も加わることがあった。

(三) 文化委員会顧問の校務は、匝瑳高校において例年九月の第二土曜日に開催される文化祭の実施のため、一学期には当該年度の文化祭の基本方針を決定し、これに従って各参加団体に企画を考えてもらい、九月に文化祭に向けて具体的な準備を進め、全体をリードするために企画を進めていくというものであるが、匝瑳高校では、他校で行われているような、準備段階から全校の教師が分担し合うような体制はとられておらず、文化祭の当日にだけ役割分担が決められ、割り当てられるという体制であった。

このように、文化祭の企画・準備については、文化委員会の顧問に仕事が殺到し忙しくなるということのほかに、例年他の教員や匝瑳高校OBなどの外部の者から文化祭の内容について批判されることが多く、報われない仕事であるということもあり、文化委員会の顧問には例年希望者がなく、昭和六二年度も文化委員会の顧問だけが決まっていない状況であった。

このような場合、校長と教頭が相談し、転校してきた教員や責任感があり頼まれると断れない性格の教員に教頭の方から話を持っていき、依頼をするというやり方で定員を埋めていたのが実状であった。そして、一度文化委員会の顧問を引き受ければ、三年間はそれを続け、それ以上はやらないでよいという慣例ができていた。校務分掌調整委員会は、当時ほとんど機能していなかった。

また、顧問の中でも特にチーフ顧問は雑務が殺到するので大変な仕事であった。右チーフ顧問は三年目の顧問がやることになっており、昭和六二年度は片山が二年目であったから、本来チーフ顧問にならなくてもよいはずであった。しかし、この年は、顧問三年目に当たる伊藤貴範教諭が生徒会顧問を兼務しており、生徒会の方からチーフ顧問にはしないでほしいという要請があったため、文化委員会の顧問の中で二番目に経験が長く、年長である片山が引き受けざるを得なくなった。

チーフ顧問に就任した昭和六二年四月当初、片山は、自分が二年目でチーフ顧問になって、他の者も経験年数が不足しており、果たして今年の文化祭はうまく行くんだろうかということを気に病み、同じく文化委員会の顧問になっていた長塚聡にその旨を何度も言っていた。

(甲四、七、八、証人市原勝、同長塚聡)

(四) 片山は、昭和六一年度まではサッカー部の顧問であったが、サッカーの経験がなくその技能もなかったので、生徒の練習指導のためにグラウンドに出たことはほとんどなかった。

しかし、片山は、六二年度に陸上部の顧問に就任し、同校の陸上部OBであり、高校時代には校内マラソン大会で二年連続優勝したこともあるので、低迷する陸上部の成績を上げようと熱心に指導に励むことになった。

陸上部の顧問は三人いたが、片山の担当は長距離部門であった。生徒たちの練習メニューは押尾教諭が作成し、片山にそれを伝えていた。

長距離の生徒のタイムアップを図るためには、生徒たちのペースメーカーになって一緒に走るのが最も効果的な指導方法であった。そこで、片山は、練習ができる日はグラウンドに出て、平日は午後四時ころから七時ころまで、土曜日は午後一時ころから五時ころまで、日曜日は通常午前九時ころから正午ころまで、生徒と一緒にグラウンドに出て走り、練習指導をした。

しかし、片山は、高校卒業以後特に継続してスポーツをしたことはなく、陸上競技の現役とは到底いえなかった。

(甲二四、三〇、五二、証人並木淳、同大木喜信、原告)

2  死亡当日の勤務状況

証拠(甲一〇、一一、二四、三〇、四六、証人並木淳、同大木喜信)によれば、以下の事実が認められる。

九月二三日は祝日であったが、同月二五日の陸上部新人戦県大会の最終調整練習日であったため、片山は午前一〇時一五分ころから匝瑳高校グラウンドで指導を開始した。

この日の気象状況は、日差しの強い暑い日で、風もあまりなかった。

片山は、ウオーミングアップを兼ねて、生徒と共にトラックを二周八〇〇メートル走り、その後一五〇メートルのウインドスプリント走(ほぼ全力で息が切れるくらいの速さで走る。)を二回走った。

それから、生徒がペース走(トラック一周を走るペースを決めて走る練習方法で、心拍数が上がった状態を一定時間持続して身体を慣らすという効果をねらう。)の練習に入ったので、一緒に走り、前半の二〇周八〇〇〇メートルを四〇〇メートルにつき約一二〇秒のペースで走った。しかし、二〇周走った時点で片山は苦しくなったので、併走していた生徒の京相に今日はつらいからこれでやめると声をかけ、走るのを中止した。そして、ゴール近くでへたりこむように地面に座り、生徒の残りのペース走の練習を見ていた。このとき片山は、顔が赤く、走ったときに吹き出した汗が乾いて、塩が吹いているような様子であった。

さらに、片山は、正午ころ、三〇〇〇メートル走の練習を行っていた生徒の大木のタイムが落ちていたので、生徒のペースを上げるために最後の二周八〇〇メートルを併走した。このときのスピードは四〇〇メートルにつき八三〜八四秒どであった。このとき片山はずいぶんつらそうであった。

そして、長距離選手の一六〇〇メートル走及び三〇〇〇メートル走の練習終了後、二〇〇メートル走五回のうち最後の三回を生徒と共にほぼ全力の三〇〜三一秒のスピードで走った。

最後に、四〇〇メートルのジョギングを生徒と共に行い、整理体操をして、練習について生徒にアドバイスをし、午後〇時二〇分ころ練習を終了した。

3  死亡前一週間の勤務状況(九月一六日から同月二二日まで)

証拠(甲九、二二、四六、五三)によれば、次の事実が認められる。この時期の片山の具体的な勤務内容・勤務時間は別紙のとおりである。

片山は、九月一六日は社会部役員会のため千葉市に出張した。一七日は台風のため臨時休校であったので、年休を取り、一八日は通常どおりの授業で、一、三、六限に社会科の授業を行った。片山は、一九日は二限に授業を行い、午後から陸上部の練習指導に参加したが、疲労の様子が見られ、二〇日(日曜日)の練習指導には出ていかなかった。

二一日、二二日は校内競技大会であり、二一日のソフトボール大会には片山も参加したが、ゴロを打って走り出したとき、通常の片山には考えられないようなもたもたした走り方をしていた。片山は、二二日には一限に授業をし、三限以降にサッカー戦の応援を行ったが、担任のクラスが勝ち進んで行く様子を芝生に寝ころんだ状態で見ている場面があった。

4  二学期(九月)の勤務状況

証拠(甲八、九、一七、一九、二一の1〜5、二二、二四、四六、五三、証人長塚聡、同並木淳、原告)によれば、以下の事実が認められる。

(一) 文化祭の準備

九月に入ってからは、同月一二、一三日の文化祭に向けて、連日文化委員会が開かれ、文化祭の参加団体の教室割りの決定、各職員に当日の行動を割り振るための分担表の作成、運動部の名簿や補助役員表の作成、教務・総務への連絡のための資料の作成、用具・PR用紙の印刷・配布、プログラムの作成・印刷・配布、残留届の管理と校内見回り、職員会議用資料の作成、ごみの後始末等についての注意事項、ポスターの張り出しについて各団体への注意、クラス審査委員の決定等の、雑多な仕事を決定し、実行していった。そして、各顧問は、それぞれの係に分かれて具体的準備を進めていった。片山の具体的な勤務内容、勤務時間は別紙のとおりである。

これらの作業は、通常の授業やホームルームの合間に進められ、また、平日の夕方以降や土曜の午後を利用して進められた。ただし、顧問のうち、伊藤教諭は有志バンドの方の企画の進行で多忙であったこと、他の一年目の顧問二名は仕事に慣れておらず、あまり積極的でもなかったことから、実際はチーフ顧問である片山に仕事が集中した。そして、九月四日が台風により休校になってしまったため、そのしわ寄せが他の日に来て、一層多忙になった。

その上、片山が二年目で不慣れであったことから、開催の前日まで文化祭の審査委員を各クラスから二名ずつ選出してもらい審査用紙を配布するのを忘れていたり、飲食店の模擬店を出す生徒に事前に検便を提出してもらうのを忘れていたりして、準備を進める中であらかじめやっておかねばならなかった事項を見落としたために直前の準備をより忙しくしてしまった。

このような状況のため、片山は、九月七日から一三日までに三二時間の時間外労働をせざるを得ず、帰宅時間が遅くなり、九月七日から一二日までの間は校内で夕食を取った。他の教員の夕食の注文も片山が取りまとめて行った。

このように準備に労力を注ぎ、一二、一三日の文化祭は終了したが、本をみて研究し、工夫を凝らして作り上げたはずの文化祭ゲートは大した出来映えのものにならなかったし、OBや他の職員から、文化祭のパンフレットのタイトルの文字を例年と異なりローマ字にしたことやお祭り的な出し物が多かったこと等に対する批判が寄せられたりした。

また、片山が集会の際に後夜祭の打ち上げについて全校生徒に伝達をしたが、その伝達の内容が誤解を招くということで、片山に対しては何ら連絡がないまま、生徒指導部長から直接各担任に再伝達を要請したという事件もあった。

このような失敗や批判を片山はひどく気に病んでいた。

(二) 片山は、文化祭の準備のため、九月の陸上部の練習指導にはほとんど顔を出せなかった。ただ、九月九日に地区予選があったので、その日は生徒を引率したが、終了後も帰宅せず、文化祭の準備のために高校に戻った。文化祭の翌日(一四日)は代休で、片山は家族と一緒に実家に遊びに行ったが、実家で横になり疲れがとれない様子でごろごろしていた。その翌日(一五日)は敬老の日で祝日であったが、片山は翌一六日の社会部会役員会に出席するための資料作りをするために登校した。

5  夏期休暇期間中の勤務状況

証拠(甲八、九、二二〜二四、三〇、四一、五二、五三、証人市原勝、同長塚聡、同大木喜信、原告)によれば、以下の事実が認められる。片山の具体的な勤務内容・勤務時間は別紙のとおりである。

(一) 七月二一日から八月三一日までは夏期休暇期間であった。しかし、授業等はないものの、完全な休業期間になるというわけではなく、七月二一日から同月二九日までは、連日生徒及び保護者との三者面談を行った。同じ時期の七月二三日から二六日まで陸上部の合宿もあったので、片山は、同月二三日から二五日までは学校にある合宿施設「至誠館」に泊まり、朝食前に練習のジョギング八キロメートルを生徒と共に走り、午後は都合がつくときに練習指導をした。合宿時の長距離走選手のメニューは、午前中は①普通ジョッグ(グラウンドでするジョギング)三、四〇分、二〇〇メートルエンドレス(三人一組になり、リレー方式で二〇〇メートルずつ走り、走り終わったらその位置で走者が走ってくるのを待って、三人終わったら一人目がまた走り出すという形の二〇〇メートルリレー)一〇回であったが、片山は三者面談のため参加しなかった。午後は野外ロード走又はグラウンドでの一〇マイル走(約一六キロメートルのペース走)であったので、片山はその一部に参加した。

合宿の練習に参加中、片山はずいぶん苦しそうな顔をしていた。

(二) 八月は、一〇日から一二日まで、一四日、一五日、一八日から二二日(強化練習)、二四日から二六日、二九日、三〇日に陸上部の練習指導を行った。これらの練習は、通常午前九時三〇分から午後〇時三〇分までに行われたが、強化練習時には午後三時ころから午後六時ころまで行われた。

一六日には匝瑳郡市陸上大会が匝瑳高校において開催されたので、片山はその引率指導をした。

そのほか、クラス活動指導を一二日、一三日、一八日、一九日、二一日、二二日に行った。

(三) なお、原告は、七月三〇日から八月四日までは社会部会の研究発表の題材収集のため歴史部会の韓国旅行に参加したものであるし、八月二七、二八日は社会科親睦旅行で東京に旅行したものであり(この事実は争いがない。)、これらはいずれも公務の遂行であると主張する。

しかし、韓国旅行については本属長(校長)の公務外研修としての承認を得て職務専念義務を免除されたものであり、社会科親睦旅行も同様で、出張命令のない(この点は争いがない。)旅行であるから、いずれも公務の遂行ということはできない。

6  一学期の勤務状況

証拠(甲九、二〇〜二二、二四、三〇、五二、五三、証人市原勝、同並木淳、同大木喜信、原告)によれば、片山は、社会科の授業及び正担任としてのホームルームなどのクラス指導、必修クラブ指導のほかに以下の校務を行っていた事実が認められる。

(一) 片山は、陸上部の顧問として、四月は七日間、五月は九日間、六月は一三日間練習指導をした。片山は、ほぼ、平日と土曜日で時間があいているときは練習指導に参加し、日曜・祝日も練習指導及び陸上大会の引率のため一学期には合計九日ほど参加していた。

片山は、初めはウオーミングアップのためのジョギング約四〇〇〇メートルを生徒と一緒に併走していたが、徐々に慣れて、一学期の終わりころにはウオーミングアップ後のウインドスプリント走にも併走するようになった。ただ、体力的にはつらそうであり、併走といっても後ろを走って追いかけてくるような状況であった。

(二) また、片山は、文化委員会のチーフ顧問として、六月一日、九日、一三日、一八日、二三日、二四日、二九日、三〇日、七月一七日、二〇日に文化委員会を開催し、同年度の文化祭のテーマ、後夜祭の内容など、基本方針を決定し、実施計画を立てていった。片山は、経験がないことから、「高文研文化祭企画読本」という本を購入し、研究をしていた。

(三) さらに、片山は、社会科主任として六月八日から同月二〇日までの間に、教育実習生二名の指導を総括し、そのうちの一名の指導を直接担当した。

五  考察

1  基礎疾病等の有無

二で認定した事実によれば、片山には、少なくとも三つの時期に区別できる心筋梗塞の病変が認められる。一つは本件病変及びこれと同じ時期の発症とみられる新しい病変、次に一週間以上経過していると見られるやや古い病変、そして一か月よりもっと前のものと見られる古い病変である。三、四で認定した事実と合わせて考えれば、右の古い心筋梗塞の発症時期は昭和六二年七月二一日ころであった可能性が大きく、それ以前に発症時期がさかのぼるものと認めるに足りる情況やその証拠はない。

そして、二で認定したとおり、片山については、動脈硬化性の病変が同年代の者に比べて強いということはなく、血栓の形成が特徴的であるというのであるが、古い病変でも七月二一日ころ発症のものであり、また、それ自体としては死に至るほどの広がりを持っていなかったこと、さらに、片山を解剖しその心臓について組織学的な検討をした斎木医師において、片山の血栓の形成要因をどれか一つのものと特定することはできないとしているところからすれば、片山に血栓を形成しやすい素因や基礎疾病があるとは直ちに認めることはできない。

また、右の古い病変及びやや古い病変が存在するということから、直ちに「片山は死に至る心筋梗塞発症の高度の素因を有していた」と断定することはできない。なぜなら、右の古い病変でも七月二一日ころより前のものと認めることはできず、昭和六二年四月以降の片山の校務分掌(特に社会科主任、陸上部顧問、文化委員会チーフ顧問)及び実際の活動状況がそれ以前と大きく変化した点を見過ごすことはできないからである。

それゆえ、仮に片山の血管又は心臓に心筋梗塞を発症させる器質的病変があったとしても、同人の直接の死因となった心筋梗塞は右の病変の自然的憎悪により引き起こされたものと認めることはできず、むしろ、後に述べるように発症前の公務の過重性が右の病変の自然的経過を超えて急激に著しく増悪させるに至ったものと考えるのが相当である。

2  公務の過重性

(一) 死亡当日の公務の過重性

(1) 被告は、発症当日の練習内容のうち、八〇〇〇メートルはゆっくりできるだけ長く走るペース走であり、一二〇〇メートルはウオーミングアップとジョギングであるから、さほど過酷な内容ではない旨主張する。

しかし、証拠(証人並木淳)によれば、ペース走の四〇〇メートル約一二〇秒というペースは、長距離のトップクラスの選手よりも少し遅いくらいのスピードであることが認められる。また、四〇〇メートル八三〜八四秒のペースというのは、トップクラスの女子マラソンランナーと同じくらいのスピードであり、最後の二〇〇メートルの全力疾走は、男子でも三〇秒を切れないという者の方が多く、女子はほとんど出すのが無理なスピードであることが認められる。

そして、証拠(甲一二、二四、二九、三二、証人青木純一郎)によれば、片山と同程度の年齢の同僚数名が、死亡当日片山が走行したのと同じ内容の走行をしてみるという実験を行った結果、死亡当日とは天候・気温に違いがあるとはいえ、同程度の年齢のあまり運動をしていない者が同内容の走行をすると、最大心拍数が上限の二〇〇近くにもなってしまうこと、被験者の中には苦しさに耐えかねて実験途中で走るのをやめざるを得なくなった者もいたこと、大部分の被験者の消耗の程度が激しいことから、実験では片山が走行した内容の一部を省略さぜるを得なくなったことが認められる。右事実によれば、死亡当日の練習指導は同程度の年齢の同僚にとって過酷な運動であったことが認められる。

さらに、証拠(証人並木淳、同大木喜信)によれば、当日の練習指導は、匝瑳高校陸上部員の練習メニューとしては、年間を通して最も厳しいものであったとまではいえないものの、一学期のスピードを重視した練習に比べて、長い距離を走れるように、少しずつ練習量を増やしていった時期に当たり、それまで二、三〇周しかしなかったペース走を四〇周しているなど、大会を控えてより充実した内容となっていたことが認められる。

(2) また、被告は、片山がもと陸上部の長距離走選手であり、日ごろからジョギングをしていたし、陸上部の顧問として連日一万メートルくらいは走行していたのであるから、当日の練習指導も片山当人にとって特に過酷であったとはいえない旨主張する。

しかし、証拠(甲五三)によれば、陸上部の顧問になる前は、片山が体重を減らそうとしてたまに走ることはあったが、習慣的にジョギングを行っていたわけではないことが認められる。また、片山は、高校卒業以後スポーツとは離れた生活をしており、昭和六〇年の校内マラソン大会では制限時間ぎりぎりにゴールし、成績も最下位に近かったし、翌年は少し順位が上がったとはいえ、陸上競技の現役というにはほど遠く、匝瑳高校陸上部顧問になるまでは、部活動の顧問といってもグラウンドに出て練習することはほとんどなかった(証人並木淳、同大木喜信)。さらに、陸上部の練習指導も九月になってからはほとんどできず、一九日の練習指導に参加して二回目であったから、片山にとっては久しぶりに激しい運動量の走行練習指導をしたことになる。

したがって、死亡当日の走行内容が片山には体力的にあまり過酷なもので

昭和62年8月被災者の勤務状況について

学校

職免の取扱い

出勤休暇の有無

出勤時刻

校務内容(授業)

その他の校務

帰宅時刻

超勤

備考

1

2

3

4

5

6

7

文化委員会

陸上競技部

社会科主任

1

〈歴史部会

韓国研修旅行〉

2

同上

3

同上

4

同上

PM.8:00

5

夏季職免

6

夏季職免

7

夏季職免

8:00

8

夏季職免

6:00

9

10

指定休日

出勤

指導

11

AM.7:15

〈2学年出校日〉

指導

12

指定休日

出勤

8:00

〈クラス活動指導〉

指導

4:30

13

指定休日

出勤

〈クラス活動指導〉

14

指定休日

出勤

指導

15

指定休日

出勤

指導

16

8:00

〈匝瑳郡市陸上大会〉

1:00

17

自宅研修

18

9:00

〈クラス活動指導〉

指導

5:00

19

9:00

〈クラス活動指導〉

指導

3:00

20

8:30

指導

6:00

21

7:15

指導

5:30

22

8:00

指導

1:00

23

24

指導

4:00

25

指導

26

指定職免

出勤

指導

27

指定職免

出勤

〈社会科親睦

東京―泊旅行〉

28

指定職免

出勤

〈社会科親睦

東京―泊旅行〉

3:40

29

指定職免

出勤

指導

1:30

30

指導

31

夏季職免

※ 「指定休日」……国の土曜休日の試行分としての指定日

「指定職免」……県の

昭和62年9月被災者の勤務状況について

学校

職免の取扱い

出勤休暇の有無

出勤

時刻

校務内容(授業)

その他の校務

帰宅

時刻

超勤

備考

1

2

3

4

5

6

7

文化委員会

陸上競技部

社会科主任

1

AM7:30

〈始業式〉

指導

PM.5:00

始業式

2

3A

1G

1H

指導

3

7:15

3G

1H

必修

クラブ

指導

6:40

1:30

4

7:05

3H

3F

4:00

午後台風のため休校

5

7:10

1H

指導

7:00

6:30

6

9:30

指導

1:00

2:50

7

7:05

1G

3H

1H

全定合同 職員会議

指導 校内で夕食

8:00

2:50

8

7:00

3G

3F

1G

3A

指導 校内で夕食

7:30

2:20

9

7:05

〈陸上新人地区予選

(千葉市)出張〉

出張後指導校内で夕食

10:30

5:20

10

7:00

1H

指導 校内で夕食

8:30

8:00

土曜日と振替

11

7:15

3F

1G

特別美化作業

文化祭準備

指導 校内で夕食

10:00

4:50

12

7:00

〈文化祭〉

指導 校内で夕食

8:30

3:20

文化祭

13

7:00

〈文化祭〉

後夜祭

10:30

5:20

文化祭

14

代休

6:00

15

9:00

社会部会役員会準備資料づくり

0:30

2:50

16

7:10

〈社会部会役員会

千葉へ出張〉

17

台風のため休校

18

7:10

3H

3F

1G

5:30

0:20

19

7:10

1H

指導

5:00

4:30

20

指導予定だった 登校せず

21

7:10

〈校内競技大会〉

5:00

22

7:15

3G

〈校内競技大会〉

9:30

4:20

23

8:40

指導

1:00ころ

3:30

はなかったとする被告の主張は採用することができない。

(3) 右事実とその後の死亡に至る経緯をみれば、右練習指導の各走行の反復により血栓の形成が誘発され、死亡につながる心筋梗塞を発症した蓋然性が高いと認めるのが相当である。

(二) 疲労の蓄積

四で認定したとおり、片山は、それまでほとんどスポーツをしていなかったのに、昭和六二年度は陸上部の顧問となったため、かなりの頻度でグラウンドに出て生徒と共に走るようになったが、体力的にはかなり苦しそうであった。また、文化委員会のチーフ顧問に就任し、一学期のうちから何度も文化委員会を開き準備を重ねなければならなかったし、文化祭に関する本を購入して研究しなければならなかった。さらに、片山には社会科の教科主任としての仕事が加わった。このように、業務の増加が片山に例年以上に疲労を与え、七月二一日ころ最初の心筋梗塞が発症したものと認められる。

次に、夏期休暇期間中は、授業は行われないにしても、三者面談やクラス活動指導を行ったり、陸上部の合宿や強化練習に通算二二日間参加しており、さほど疲労の回復はできなかったことが想像できる。このころから、煙草を吸わなくなったことも片山の体調の悪さがうかがわれる。

さらに、九月に入ってからは文化祭の準備に連日忙殺され、死亡の約二週間前に当たる九月七日から一三日までの間に三二時間の超過勤務を行っている。そして、前記認定のように文化祭の準備は肉体面の疲労のみならず、精神的ストレスも大きかったことがうかがわれる。前記やや古い心筋梗塞の病変はこの間の発症によるものと推認される。文化祭の翌日に片山が実家でごろごろと横になっていたこと、二一日の校内競技大会でもたもたとした走りっぷりであったことは、右心筋梗塞の発症の影響とこのころ片山の疲労がかなりの程度に蓄積されていたことを現すものであると考えられる。

3 結論

以上検討したところによれば、片山の死亡につながる心筋梗塞は、昭和六二年度一学期からの過重な校務の遂行による疲労が蓄積し、少なくとも二度にわたる心筋梗塞が発症していたところに、死亡当日激しい運動量の走行練習指導が行われたことにより、新たに血栓の形成が誘発され、大きな広がりをもって発症するに至ったものと認めることができる。そうすると、仮に片山の血管又は心臓に心筋梗塞を発症させる器質的病変があったとしても、片山の公務の遂行こそが死亡につながる心筋梗塞を発症させたものといって差し支えない関係にあるものと認められ、同人の死亡と公務遂行との間に相当因果関係があるというべきである。

したがって、片山の死亡は公務上のものと認めるのが相当であり、これを公務外と認定した本件処分は違法である。

(裁判長裁判官石川善則 裁判官中村俊夫 裁判官小池あゆみ)

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